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「本当の家族」

 
第31回(平成23年度)
全国高校生読書体験記コンクール入選
山川麻巳さん(新潟県立高田北城高等学校)

「私の家族」という思い出の中には「父親」というものがない。
私の家族から「父親」というものがなくなったのは六歳の誕生日の少し前。六歳という歳ならば、普通は少しぐらいその頃の記憶があるだろう。だが、私にはそれがない。自分で無理矢理忘れようとしたのか、それとも自然に忘れていったのか、今となっては思いだせない。私が思うにたぶん前者だろう。

新潟県立高田北城高等学校

新潟県立高田北城高等学校


幼い頃、ある友人が言っていた。
「父親がいない家は本当の家族じゃないんだって。」


私にそう告げた彼女もまた、私と同じように母子家庭で育った。彼女はその言葉をまた別の友人に言われたと、私に話してくれた。


そんなことを言ったら、私達は本当の家族を持っていないことになるのか。私にいたっては、「父親」の顔も「父親」とはどんな存在なのかさえもわからないのだ。むしろ、「本当の家族」というものの定義はどこにあるのか。両親がいることなのか。親も祖父母だってずっと生きていられるワケでもない。だから、「父親」がいるかどうかなんていうものは、家族の定義に必要ではないのではないだろうか。じゃあ、結局「家族」とはなんだろうか。いつもそんなことを考えていた時期があった。


そしてこの本と出会ったのが中三の春。「家族」についてさんざん悩んでいた時期から、七年もたっていた。


私はその頃、図書副委員長を務めていた。ある日の放課後、全クラスの学級文庫を整理し、まとめる作業をしていた。最後に整理していた自分のクラスで、この本を見つけた。青い空と流れていく雲の上を飛んでいくような少年。本の表紙が目に止まった。いつものように、あらすじをパラパラとめくると、「冒険」という言葉が目に入った。私は元来、冒険ものの本が好きだ。その本を持ち帰ることにした。


持ち帰った本を開けてみると、「ママやパパ」という言葉を見つけることができた。正直、私は「パパ」「お父さん」といった言葉が少し苦手だ。誰にも話したことがなかったが、「父親」というものをトラウマに感じているふしがある。だが、私は本を閉じることができなかった。


小さな男の子の口調のような言葉で、物語がつづられている。


主人公のハリーは、自転車に乗っていた時にトラックにはねられて死んでしまう。死後、家族や友人達に会いに行き、やり残したことをやり遂げていく。そんなストーリーだ。


この本を読み終えた時、今一度、自分の家族という存在を感じたいと思った。母、妹、祖父母に、すぐに会いに行った。会いに行くといっても隣の部屋や台所であるが。会いに行くと、みんな「どうしたの。」って不思議そうな顔をして私を見る。その言葉を聞いたり、みんなの表情を見ていると、自然と私の心の中に安心感が生まれた。


「これが私の家族。そして私の居場所。」


そういう感じ。たとえ友人達と同じように父親がいるわけではないのだけれども。たとえ父親という存在がどんなものか知らなくとも。私の家族は、この人達だ。代わりはいないし、代えることはできない。ましてや、私は自分の家族が好きだ。だから代わりが欲しいなど考えるはずもない。私の家族は、普通の家族よりも会話が多い。そして家族の誰かが悩んでいれば、手をさしのべる。こんな単純な事だけれども、それは心でつながった家族だからできるのだと思う。そして、そこが私の家族のいいところであり、私が家族を好きな理由でもある。「本当の家族」


私の考える家族の定義。家族の人数は関係ない。父親、母親、姉妹、兄弟。その全てがそろわなくとも家族はなりたつのだ。血のつながりさえも関係ない。私の考える定義で最も重要なのは、心のつながり。ハリーとその家族のように。ハリーが死後の世界で出会ったアーサーとその母親のように。そして父親がいないけれども、心でつながっている私の家族のように。人と人が思いあっていることこそが、「本当の家族」の定義であり、私がこの本から学んだことだ。


高校に入って初めての夏休み。あらためてこの本を手にとった。そして私は、また家族について考えることができた。


やはり家族というものは、「絆」があることで、「本当の家族」となることができるのだと思った。そして家族という大きな枠組みに頼るのではなく、親子、姉妹、兄弟間といった個人のつながりを強くすることで、「家族の絆」が強くなっていくのだと思う。


私の家族の絆は日々、強められている。これからもこのつながりはたちきれることはないだろう。

 

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