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言葉という心臓

 
第37回(平成29年度)
全国高校生読書体験記コンクール県優良賞
齋藤淑人さん(新潟県立長岡高等学校)

 初めて嘘をついたのはいつだろう。上辺を偽ることへの抵抗感が、時間とともに薄らいでいったのはなぜだろう。私はこの夏、ある一冊の本と二年ぶりに再会した。内容は同じはずなのに、私への響き方は大きく変化していた。

 中学時代、私は学校へ行くのが嫌だった。教室に居る時の、満員のエレベーターに閉じ込められているような息苦しさ。自分を嘲けるようにさえ聞こえる数々の笑い声。人とどう関われば良いのか答えを出せず迷ううちに、気付けば私は、自分を「演じる」ようになっていた。あなたとの会話が楽しくて仕方無い、という表情を無理に浮かべ、相手の機嫌をくすぐるような言葉を選んで並べる。人に「ウケる」ことを優先し、その場の空気のためにふざけ、時には泥も被った。そうして私が得たのは達成感だった。「ようやく自分の殻を破ることができた」と。そんな私の様子を見た父は、一冊の本を手渡してくる。太宰治著、「人間失格」である。

 私の父は大の読書家だ。学生時代には、作家の研究のためにと一人海外を旅し、作品ゆかりの地を巡ったという。そんな父が「女々しい」と評する主人公・大庭葉蔵に、当時の私は強い親近感を覚えた。人に素顔をさらすのを恐れるあまり、「道化」を演じて上辺を繕う葉蔵。私は答え合わせをするようにページをめくり、彼に共感した。そして、これこそが私の歩むべき道なのだ、と確信をもった。

 しかし、高校へ進んだ私は、再び人との関わり方に迷うようになる。きっかけは、スマートフォンを持つようになって始めたSNS。相手の投稿やメッセージに対し、言葉を取捨選択して返信する。一見、実際のコミュニケーションの過程が見事に再現されているようで便利だが、私は徐々に違和感を覚えるようになった。本来の複雑な言葉や感情をパターン化し、簡略化された文章や記号で表現するその様子、人と帳尻を合わせてばかりの私自身の態度と重なったのだ。私の人間関係への不安は膨らむばかりだった。

 ある日、高校生への推薦図書として、二年前に読んだ人間失格が紹介されているのを見つけた。その紹介文を読み、私は衝撃を受けた。「この主人公を自分と重ねるか否かで、日本人は二分される。」私は再びその本を開いた。今と同様に悩んでいた二年前の夏のように、葉蔵の生き様に共感することで、自分の在り方への自信を取り戻そうと思ったのだ。

 だが、その印象は以前と違ったものだった。もちろん葉蔵に共感こそしたものの、それ以上に、彼のコミュニケーションにおける無機質さ、人間味の無さが際立って感じられたのだ。彼が、私が求めていたのは、周囲の人にとっての予定調和にすぎない、いわば便利なスマホのような人間になることだった。ようやく、彼が自身の生き方を「失格」とした意味が理解できた気がした。そして、以前は気にも留めなかった一文が私に訴えかけてきた。「自分は一言も本当の事を言わない子になっていたのです。」私は決断した。これからは、本音を、感情を素直に言葉にしよう、と。

 私は普段の生活の中で抱えていた悩みを、初めて友人に打ち明けてみた。友人は、考えすぎ、と笑いつつも、真剣に私の話に耳を傾けてくれた。どう人間関係を築けば良いのか分らないこと、そうやって悩むあまり、時折学校へ行くのさえ嫌になること。そして、そんな毎日をやり過ごすには、自分を隠して周囲に同調するしかない、と半ば思っていること。話しすぎたかも、と心配したが、彼女はきちんと応じてくれた。まるで、二度目にあの本を読んだ時の私のように。
「それは違うと思うよ。」
その言葉が、私にとって一つの答えになった。

 後日、大学見学のために東京へ出た私は、その合間に父とある場所を訪ねた。太宰治が入水したとされる川だ。そのほとりで、私は新しい決意を固めた。

 近年、情報ツールの発達の陰に隠れ、かえって人の本音が見えづらくなっている。その背景もあってか、私と同年代の子どもたちが自らを傷つけ、命を絶ってしまったというケースも増えてきているように感じる。その人たちに向かって、「命を大切に」などという言葉を、私は絶対にかけられない。言葉の前で迷い、自分と真剣に向き合う余り、その命の重みに耐え切れなくなったのかもしれないというのに・・・。だからこそ私は、周囲の仲間たちの本音を受けとめ、支えてあげられるような存在になりたい。綺麗に繕われた言葉を使うことが、必ずしも全うな生き方ではないのだから。私はそんな当たり前の、しかし忘れかけていたことを、葉蔵の姿から教えてもらった。これからの時代、この本はより一層大きな意味をもつようになるだろう。荒削りで良い。私は自分の澄み切ったままの肉声を、誰かに届けていけたらと思う。
 

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