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[第75話]地租改正を伝える二つの地券

 明治政府が安定した国家財源確保のために、明治6年(1873)に地租改正条例を発令し、税制度・土地制度を改革したことはよく知られています。それは、納税方法が収穫高をもとにした物納から、新たな基準で算出される金納へと大きく変わるものでした。

明治5年(18722月に地券が交付されます。明治5年の干支(かんし)を付けて「壬申(じんしん)地券」と呼ばれたこの地券は、徴税の基準とする土地所有者や土地の価格を明確にすることを目的としたものでした。

県内では冬空の雪が降る時期に、11枚の田畑の面積を測ることから始まり、雪の下に埋もれた中での作業は難渋して進まず手続も繁雑(はんざつ)でした。そのため明治6年(18736月までに、現在の下越地区周辺の2000か村のうち、交付されたのはわずか51か村(2.6%)に過ぎません。他の地区についても同じような状況が考えられます。このような状況の中、徴税基準に問題があるとして明治政府は「壬申地券」の交付を打ち切ります。「壬申地券」が交付されたのは、全国の半数にも及びませんでした。

明治6年(18737月に地租改正条例が発布され、新たな地券が交付されます。「改正地券」と呼ばれるものです。この地券には地価と、それをもとに算定した地租(税)が記載されました。この地券によって、政府は国家財源となる税収を確保するために地租を決定し、それを農民に強引に認めさせようと考えました。しかし、その地租額は高く、農民が算出した地価とは大きくかけ離れていたため、全国で地租改正反対運動が発生しました。

県内でも県と農民との激しい論争が交わされ、特に旧水原町周辺(現、阿賀野市)の長期に渡る反対運動は全国にも知れ渡ります。しかし最終的には明治13(1880)9月、県は農民の組織的運動への強行な切り崩しを行うとともに、一方で、このままでは、その年の税額も増えるということなどを伝えたため、農民側がやむなく承諾して県内の反対運動は終了しました。

「壬申地券」は土地所有者・地所・面積・土地の価格などが確認され、地租改正実施の前提にはなりましたが、制度的には不備なものでした。

改正地券は、記載される地価・地租が、全国的な農民の激しい反対運動や減額運動を誘発することにもなったという証でもあります。

二つの地券の存在は、地租改正を行うことについて、政府と農民が最初から順調に進められたのではなく、大きな波瀾を伴って行われたことを伝えています。

 


【壬申地券(加茂郡新穂村、現 佐渡市)】(請求記号E9321-5-382)


【改正地券(刈羽郡女谷村、現 柏崎市)】(請求記号E0013-1263-1-17)