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「寛延4年 高田大地震 6」 (金森敦子)

「寛延4年 高田大地震 6」 (金森敦子)

 5月2日。
 江戸に第一報を届けた竹内又四郎に続いて、高田からは次々に御用飛脚が江戸へと走っていった。飛脚が江戸藩邸に到着し、これまでに判明した被害を報告した。
 この日もまた、高田城の破損カ所を書いた書面を持って、筑山貞四郎が江戸へと発った。
 亥の刻(午後10時頃)になって、28日の夜に江戸表を発った徒歩(かち)目付の福富友太夫と根岸甚四郎が高田城に到着した。

 以上が地震発生当日から五日間の記録である。これ以後も被害調査が進められ、被害地図が作られている。高田から江戸藩邸への報告もしきりだった。こうした間にも、佐渡奉行へ金輸送の警固が出来ない旨の断りを出したり、隣りの長岡藩牧野駿河守から地震の安否を尋ねる手紙がきたり、江戸藩邸の奥方と姫様から地震見舞いがあったりと、忙しい日々が記されている。

 全部を取り上げることは出来ないので、以下は抜き書きである。

 5月21日。
 今町で祭礼があった。1人に付き1文ずつ集めたら3貫835文あったというから、生き残った者が少なくても3835人はいたのだろう。社人が舞うだけの祭だったが、「祭礼の節、町中残らず遊び申し候、その日は少し地震の心地も止み申候」(「今町会所地震書留写」)と、余震もこの日ばかりは遠慮したようだ。
 地震から25日目の祭。祭どころではないと思った町民も多かっただろうが、このような折りだからこそ祭をしようというのが今町の復興の意気込みだった。1人1文の祭で久しぶりに人々が晴れやかな気分になったことが知られる。

 5月24日。
 京都東本願寺から地震見舞いの使僧が来た。地震のときに在京していた高田の本誓寺の住職も使僧を送ってきた。本誓寺が持参した見舞い品は「鰹節一箱」。両使僧は渋紙張りの仮屋で休み、「御料理二十五菜」で接待されている。
 鰹節一箱には特別な意味があるのだろうか。この時点で、鰹節の見舞いを有り難いと思った者は1人もいなかっただろう。鰹節の見舞い品は、当時の僧がいかに人心とかけ離れていたかを示しているように感じられてならない。
 使僧たちが早速町に出て説法をしたという記事は記されていない。被害がどれほどのものだったか、人民がどんな苦労をしているかの質問もなかったのではないか。そして、高田藩が苦労して調えたにちがいない25品の料理を、平然と口にしたのだろう。

 豪雪地帯の高田では、雪が降るまでに家屋を建てることが急務だった。幕府から1万両を拝借して、工事は急ピッチで進められたようである。
 この高田大地震の被害がどれほどだったのか。被害の全貌が明らかになるにつれて数字は大きくなり、また詳しく調査することで前の概算の数字が改められた。名立崩れがあった地域に、救援が差し向けられたのはいつなのか、全体の被害はどれほどにのぼったのか、それを示す確かな記録を見つけることはできなかった。 (終わり)

 

金森様

金森かなもり敦子あつこ(ノンフィクション作家)

 

このエッセイに関連する本

今町会所地震書留写

理科年表

新収日本地震史料