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「個人主義・自由主義から共同体主義へ」 (蛯原 勝)

「個人主義・自由主義から共同体主義へ」 (蛯原 勝)

 私は、若者支援事業に携わりながら、並行して成年後見事務にも取り組んでいる。これらの分野で大きな困難に直面するのが、支援の必要性があるにも関わらず、ご本人が支援や介入を拒否する場合である。とりわけ、ひきこもっている方や独居高齢者の方で、うつ病や認知症などがあり、放置していると疾患が重くなり、時には生命の危険さえある場合である。そこまで重大ではなくても、健康的でない生活を送っている若者や高齢者に対して介入していくことが、そもそも法律的にも倫理的に許されるのだろうかという問題である。
 まず、法律面から考える。精神障害者に対する介入の法律的根拠は精神保健福祉法である。この法律では措置入院や医療保護入院そして移送など、本人の同意なしの介入が認められている。高齢者に関しては、高齢者虐待防止法が根拠となる。独居高齢者の場合、他者が関与していないセルフネグレクト(自己虐待)である。
 
しかし、そこまで重大な状況に至っていない場合への対処が難問なのである。たとえば、ひきこもっている方の居宅を訪問することについて、居宅が家族の所有であり、家族が訪問に同意している場合は、居宅への訪問は合法であるとされている。しかし、本人への面会は強要できない。独居高齢者の場合は家族がいないので、本人の同意なしに居宅に立ち入ることは困難である。
 したがって、第三者としては、こうした方々に強制的に介入していくことは、現行の法制度の下では許されない。
 それでは、法律を改正もしくは制定して、こうした介入を制度化するとしても、そもそもその根拠は何かということに帰着するのである。
 だいたい、法律は言わば伝家の宝刀であるからして、福祉職や民生委員など福祉に携わる者が支援を必要としている方へ介入するに際して、法律論を持ち出すのは、初心者の誹りを免れないだろう。だから、支援を必要としている方との関係性の構築を図るというソーシャルワーク(社会福祉援助)の初歩的な原則自体の(法律的ではなくて)倫理的根拠を明確にしなければならない。
 
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は『これからの「正義」の話をしよう』(2010年、早川書房)で、道徳的責任の3つのカテゴリーを掲げている。すなわち、
 
1 自然的義務:普遍的。合意を必要としない。
 2 自発的責務:個別的。合意を必要とする。
 3 連帯の責務:個別的。合意を必要としない。
である。
 合意なしに他者に介入・関与しようとするときに根拠となると思われるのは、連帯の責務である。連帯の責務とは、家族、地域社会、国民社会における共同体(コミュニティ)的関係に由来する責務であり、道徳的個人主義や選択と合意の倫理すなわち自由主義的倫理では把握できない責務である。人間は、コミュニティなしには人間らしく豊かに生きられず、コミュニティへの帰属は責任を伴うものである。そして、人間らしく生きるとは、他者との関係の中で、時には自発的に選択し、時には所与のものとして、自らの同意なく与えられた役割と責任を担うことである。
 
個人主義と自由主義は、20世紀の末から新自由主義と言う極端な形態を取り、経済的には格差と貧困、社会的には無縁社会、政治的にはポピュリズムを生み出した。もう行き着くところまで到達したように私には思える。そろそろ本来の姿に立ち戻ってもいいのではないだろうか。
 
すなわち、長くひきこもっている若者や独居の高齢者に対して、節度ある介入(すなわちお節介)を躊躇わず、袖すり合うも他生の縁として、ご近所に住む者同士がお互いに気遣い合うことが求められていると思う。
 そして、福祉職はそのようなお節介や気遣いを率先して行う役割を課せられているのではないか。私はそうした役割を果たしていきたい。

※ 写真 : 新潟市ひきこもり相談支援センター開所式の様子(2011年8月)

蛯原 勝 (えびはら まさる)  氏
新潟NPO協会常務理事
社会福祉士・精神保健福祉士
三条地域若者サポートステーション・総括コーディネーター
  

蛯原様写真蛯原 勝

(新潟NPO協会常務理事)

 

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