政治の情況は口にするのも嫌な有様になって久しく、しかし見たくないからといって見なくていいのかと自問自答しないわけにもいかず、面倒くさいからどうにかしてくれと思う始末。 原発事故の作業員の、劣悪な作業環境が報道されたのを見て、この国は幾度でも飽きずに同じ間違いを繰り返すのだと、暗澹とした。戦争を描いた日本映画には、兵士が遊んだりくつろいだりする場面はほとんどないがアメリカ映画のそれには必ず出てくるのは、兵站が確保され、なおかつ士気を維持するため兵士をしばらく前線に置いたら後方に戻す仕組みが定着しているからだ。ナポレオンだって兵站には失敗したが、日本は何度もそれで痛い目に遭っているにも関わらず、いざとなると必ず頭からすっぽり抜け落ちるように思考ができているらしい。 “いつか来た道”と心当たりに「零戦燃ゆ」を再読してみると、“いつか来た道”のオンパレードだった。情勢がまずくなると運を天に任せたり、根性を持ち出したりする。打開できないと「根性がなってない」せいになり、誰かを血祭りに上げることでちょっとだけすっきりする。そのことが、多くの人の心に陰を落として情況はさらに悪くなり、結局のところ1つ悪くなると雪崩を打って何もかもダメになる。二十代で読んだときには、よくもこんな発想で戦争ができたものだと、日本は絶対に戦争をしてはならない国なのだと思ったが、ちょっと世の中を知ってみれば、戦争でなくても日々こうだ。 私たちの日々が、そうなのだ。菅直人が首相でなくても、情況が今よりマシだったとは思えない。同じ方向を向かない(あるいは向けない)人を抹殺するのは、政治家や軍人であるかもしれないが、ないかもしれない私たちであり、権力の前で自粛するのも私たちであり、もっともらしく批判したつもりで誰かを血祭りに上げて本来の目的を見失うのも、私たちの日常の中にあるのだ。 先のコラム「選択のために歴史はある」で、加藤陽子氏の問題意識について触れたけれど、“正しい”精神から書かれた本も、誰かを血祭りに上げてちょっとすっきりするための“間違った”読み方をされては意味をなさない。今こそ、「私」の日々を天秤の片側に置いて、読んでほしい。三冊組みだが、最初の1冊だけを読むつもりで。 |